山崎林治先生のこと


市民タイムス(2001.1.12)の記事から

〜山崎先生をしのぶ〜

 冬になると赤い枝と白い木肌をみせ、梓川の河原を彩るケショウヤナギ。長く信濃生物会会長を務め9日に103歳で亡くなっ植物研究家・山崎林治さんはケショウヤナギが本州で安曇村上高地以外にあることを最初につきとめた人だった。
 「松本深志高校の教員だった昭和24年、高校に放送施設を造る際、先生は生徒の父母に寄付を募るため安曇村へ歩いて来村しました。波田町・安曇村境の新淵橋を渡ったときに、梓川左岸にケショウヤナギを見つけたそうです」。旧制中学在校時から山崎さんを知る、三郷村の村誌編纂委員・柴野武夫さん(73)は、発見のいきさつを知る一人だ。
 ケショウヤナギは、日本では北海道の日高、十勝地方に分布することが知られていたが、昭和2年、上高地にも自生していることが分かった。21年後に山崎さんが上高地から30キロ下流の新淵橋で発見。その後、25年に烏川で見つかり、26年には梓川と奈良井川の合流点近くで30本近い群生を発見するなど、相次ぎ確認。今では梓川沿いの町村がケショウヤナギの保護をするなど、上高地以外の分布は広く知られるようになった。

山崎さんが昭和34年に同校を退職、引き継ぐ形で同校の生物教諭となった柴野さんは「山崎先生の業績で大きいのは、実験生物学。実際に見て歩き、触れ、実験することを大事にした。好奇心の強い方でした」としのんでいる。
 山崎さんが顧問を務めた同校の博物会に所属していたOBの一人(69)=波田町=は「『木だって切られりゃ痛いわな』という言葉をよく思い出す」といい、「今は里山というが、昔から低山帯の植生保持の重要性を指摘していた」ことを思い出している。

 松本市や大町市の街路樹は、地元の樹木を使うよう提案。別の同校OB(69)=三郷村=は以前、松本市の鎌田中学校に植物園を造る際、山崎さんが監修に当たったときの出来事を覚えている。ダンプカーで運んだ土を整地せず、生徒が好きな木を持ってきて植えた。校長が、植物がいっぱいになって困ると話したら山崎さんは「自然に淘汰される、それが植物の本来の姿」と言ったという。



中日新聞松本ホームサービス(2000.11.19)の記事から

〜松本の樹たち〜

 街の中心を東西に流れる女鳥羽川の橋、かつての大手橋−現千歳ばしから北、お城までの通りが「大名町」である。大名町は、松本駅に降り立ちこの街を訪れる旅人が、まずめぐり会う旅情の地である。突き当たりに古城を見る家はざまの道路には、伸び育ったシナノキとナナカマドが、ビルの並ぶ冷たい風景を和らげ、山間の町のイメージを見事に演出している。

 ここに「シナノキ」が植えられてから、25年ほどが経つ。本来は山野に自生する落葉樹ながら、よく街中の悪環境にめげずに育ち、見上げれば梢は空の雲に手をさしのべ、アルプスの風を招いてゆれる樹影が、路上を彩る。−松本は冬が長いから、足下に陽のさす落葉樹、それも松本らしい樹を−との山崎林治氏のご指導があり、この木を植えた町の人達の先見性が、今を支えている。のびやかな冬の樹形美に始まり、春から夏への新緑と甘い芳香の花の季節、ヒワやヒレンジャクまで呼ぶ秋の木の実。四季を通じて道往く人を楽しませる。 

<後略>


山崎先生略歴

明治30年

長野県上山田村に生まれる

大正4年

上田中学卒業

5年

長野師範学校卒業(小学校勤務10年間)

15年

屋代中学

昭和6年

松本第二中学

7年

木曽高等女学校兼任

16年

松本中学(松本深志高校〜34年)

24年

松本平でケショウヤナギ発見

31年

長野県文化財専門委員(〜51年)

33年

信濃生物会会長(〜62年)

35年

教育功労者表彰(長野県教育委員会)

42年

新毎文化賞(信濃毎日新聞社)

45年

文化財功労者表彰(文化庁)

53年

叙勲(勲五等瑞宝章)

平成13年

没(103歳6か月)


著書

昭和26年

生物実験室ノート(内田老鶴圃)

27年

生物実験入門(中教出版)

27年

顕微鏡の実験(中教出版)

34年

遺伝の学習(中教出版)

42年

信州の花と木(令文社)

42年

長野県名勝天然記念物・植物(信濃生物会)

61年

信州の花と実と(郷土出版社)

平成4年

本州のケショウヤナギ