松本城天守および総堀の整備は石川康長の時代(文禄〜慶長)の間に行われたと考えられる。康長は岡田から玄蕃石を運ばせたが、苦情を言った人夫の首を切り、それを槍の先に差して石に乗り、運んだというエピソードがある。ところが慶長18年(1613)10月19日に康長は突然に改易され、豊後佐伯に配流されてしまう。なぜこのようなことになったのだろうか。史料には次のように出ている。
①『駿府記』(江戸時代初期に書かれた書物)
十月十九日、今日入夜、石川玄蕃頭(康長)、日来不儀露見により、知行没収、大久保長安石見守 縁座……
②『当代記』(元禄年間(1624〜1644)に書かれた史書)
十月、また信州フカシの石川玄蕃、これも近年大久保石見を語り、知行あい隠すの由にて改易なり、すなわちその身を九州衆に預けらる。
③『慶長年録』(慶長14年か元和9年の記録)
六月、信州松本城主石川玄蕃、近年大久保石見守と懇切にて、知行に隠田数多これあるにつき豊後の佐伯へ配流、毛利伊勢守にお預け。
このように、大久保長安(佐渡金山奉行など。不正発覚により幕府より訴追)との関係が指摘され、新田開発した田地を隠し持った罪で改易させられたとするのが江戸時代の通説だったようである。
④『中川市郎兵衛書留』(松本史料叢書「中川雑記」)
「石川玄蕃頭三長は大久保石見守と縁組し、その上居城信州松本の城に天守を建て、本城を石垣にし、城の四方には要害を築き、堀をかまえかたがた申し訳立ちがたく、これによって慶長十八年改易を仰せられ、知行八万石取り上げ、十月十九日八丈島流罪」と書かれていて、改易の理由が松本城の築造にあるとするものである。
⑤『信府統記』
「石川兼ねて石見守と縁を結び、交わり親しかりし上、城普請の時も公命を得ずして私になすこと多し、領内の在家寺院を壊ち取り、人民を悩まし、塔頭の九輪を取りて鑵子となし、木石を掠め取るのたぐいすくなからず」と、同様な解釈をしているが、もうひとつ別な理由をあげてる。「家老渡辺金内は同職伴三郎衛門という者と出入りありて家中二つに分かれ騒動あり」このようにお家騒動が改易の理由になったという解釈。
さらに惣堀の東外側にもう一本堀を掘ったと言われます。この堀は完成しないまま康長が改易になったために「捨堀」と呼ばれる。この堀が改易の理由であるという説もある。現在は土塁が残るだけ。勝手に城の普請を行ったために罰せられたということだろうか。
康長の改易にはまだまだ謎がありそうだ。それにしても、なぜ石高に比して堅固で大きな城を築いたのか? この遺産が現在の松本の観光に役立っていることも事実である。

太鼓門枡形の玄蕃石。石川玄蕃(康長)が岡田から運ばせたという

惣堀の東外側にもう一本堀を掘った。未完のままなので「捨堀」